落語入門「第三回 上方落語の誕生」

前回、京都で活躍した噺家「初代 露の五郎兵衛」が1691年(元禄4年)に著した「軽口露がはなし」では、全88話中、実に28話が、落語の源流ともいえる笑話集「醒睡笑」に由来する噺だった…ということは前回書かせていただきました。

今回はその「初代 露の五郎兵衛」について書かせて頂こうと思います。





初代 露の五郎兵衛はいわゆる落語の「名跡」でして、元々は「落語の祖」と言われる「安楽庵策伝」同様、僧侶でした。

彼は剃髪、還俗、剃髪を繰り返し、その間に『軽口露がはなし』『露新軽口ばなし』『露五郎兵衛新ばなし』などを著したとされています。

なお、1968年に露の五郎兵衛を襲名した2代目はいわゆる現代の方でして、2009年に亡くなりました。

2代目の門下には、日本で初めての女性落語家である「露の都」ら、総勢10名を超え、「露の五郎兵衛一門」として、上方落語界で活動しています。





さて、2代目に話がそれちゃいましたね。

話を初代に戻します。

露の五郎兵衛の活動拠点は京都でした。

前述の安楽庵策伝も京都で活動していたことを考えると、このころの落語のメッカは、大阪でも江戸でもなく、京都だった…ということになります。

少し遅れて米沢彦八が大阪で、鹿野武左衛門が江戸で活躍して、大阪や江戸にも落語が根付いていきます。

現代ではお笑いのメッカと言われている大阪の名前を冠して「大阪落語」と呼ばずに、大坂や京都を初めとする畿内を呼んだ「上方」という名前を冠して「上方落語」と呼ばれているのは、落語のふるさとが京都なので京都に敬意を表して…ということなのかもしれません。

なぜなら、昭和初めまでは「大阪落語」「京都落語」とそれぞれ呼ばれていて、そのまま「大阪落語」としておけばよかったのに、京都落語の勢いが衰えたのを受けて両方を合わせた「上方落語」という名称に敢えて呼び名を変えたのですから…。。





安楽庵策伝が僧侶としての立場で説教の中に落語の源流を見出したのに比較し、露の五郎兵衛は道路、つまり「大道」で、机のような「高座」と呼ばれる台の上で噺を披露し、聴衆から金銭を得る「辻噺」という方法で、大衆に落語文化を根付かせていきます。

なお、「高座」は落語や演芸から生まれたものではなく、もともとは寺院などで僧が説法するときに座る一段高い席を指します。

そういったことからも、落語はお坊さんの説教に源流があることがお分かり頂けると思います。

ちなみに露の五郎兵衛は、京都の北野天満宮、真葛が原、四条河原なので辻噺を演じたとされています。

もちろん、辻噺だけではなく、余興座敷や、貴人に呼ばれて話を披露することもあったそうです。

このように「上方」京都に落語を根付かせていった露の五郎兵衛を、「上方落語の祖」とする声もあります。

彼が活動した北野天満宮境内には、記念碑が建てられていますので、もし機会がありましたらおいでになってみてください。





次回は、やはり文中に出てきた初代 米沢彦八について書かせて頂こうと思います。





画像


今日の画像は、今日は口座のこともちらっと書きましたので、昨年10月27日に再際されました「第一回狸寄席」での高座を。

一か月ちょっと後の4月26日(土)に札幌プラザ2.5で開催いたします「第二回狸寄席」でもこのような形の高座が形づけられます。





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